第1次世界大戦から日本が学んだことは、今後の
戦争が長期の総力戦になるということであった。し
かしながら大正期の日本の主なる輸出産業は生糸や
玩具などの農産物と軽工業品が中心で、とても長期
の総力戦を戦いぬけるような産業基盤はなかった。
日露戦争後の極東配備のソ連軍と対峙するには、40
個師団(約 100万人)が必要とされたが、そんな大
軍隊を養えるだけの予算もなく、また海軍も対米戦
用の八八艦隊(戦艦8隻、巡洋艦8隻)、を整備す
ることもできない状況にあった。よって大正12年の
国家予算の半分が軍事費となり、犬飼毅は陸軍の予
算を削って、日本の産業構造を重化学工業化しよう
と提案していたが、陸軍は予算削減ということに対
して、いかなる理由があろうとも反対であった、又
装備よりも人数つまり師団数を重視する傾向があっ
た。結果、産業の重化学工業化は遅れ、近代化され
た極東ソ連軍の火力は日本の3倍となり、ノモンハ
ン事件を迎えることになる。
海軍もワシントン軍縮条約により、主力艦の保有
率を5.5.3で政治決着させた海軍の条約派は徐
々にその撤廃を要求する艦隊派に押し切られてゆく。
海軍の予算獲得と権益の拡大という個別的な利益を
優先させる艦隊派が、英米との協調の下で日本の繁
栄を図ろうとする条約派を駆逐していった。このよ
うに、陸海軍の人事は、省益を声高く標榜するもの
が、出世してゆき国際協調の下に日本の国益を追求
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するという常識派が少数意見となっていった。
このような趨勢が無原則に拡大されてゆき、大東
亜共栄圏にたどり着くのである。これは、北におい
てはソ連との緊張関係を生み、南方においては、米、
英、仏、蘭との摩擦を生む、非現実的、独善的な構
想であった。ただでさえ総力戦を戦うような国力が
ない中で世界と対峙するという悲劇的な権益拡大戦
略であった。
対米開戦阻止の最後の役割を担った海軍も、くず
鉄 110万トンを海軍に支給することを取引条件に開
戦に賛成してしまい、ついに石油の76%、くず鉄の
70%、精密工作機械の40%、軍需用資材の66%を輸
入している米国との開戦に戦争戦略もないまま死中
に活を求めてのめりこんでいった。このような膨張
指向は、2発の原爆とソ連の参戦という悲劇的な結
果をもってしか止めることができなかった。
この歴史の教訓から何を学ぶかということである
が、現在の政治状況から判断して、80兆円の一般会
計予算と 270兆円に及ぶ特別会計予算の削減など、
とてもできるような力が今の政府にはない、おろか
な指導層による、おろかな政策から景気は下降し続
け、最後には市場による暴力的な調整が待ち受けて
いるような気配さえある。
但し、これを回避する方策としては、多少の波乱
があったとしても、唯一政権交代しかないのは明ら
かだ。
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