市民がボランティア精神で政治家を支援するとい
う「ボランティア政治」というのが最近の潮流であ
り、この流れは新たな民主主義国家を実現するため
にも普及すべきものです。しかし、現段階での安易
な普及に対し危機感を感じているためここで意見を
述べます。この意見に対して賛否両論があると思い
ますので、意見等がありましたらよろしくご教授願
います。
私がある政治家を支援しているは、全くのボラン
ティア精神からです。かれこれ7〜8年のつき合い
で、彼は政治家としては3期目に入っており出世街
道をばく進中です。このボランティア精神はなにも
私だけではなく、彼を取り巻く人は全てそうです。
そして、その政治家自身もボランティアの精神を持
って政治に臨んでいるはずでした。しかし、7 〜8
年前の選挙の陣営と現在の陣営では、取り巻きが大
きく変わっています。古くから尽力していた人はい
なくなり、次から次へと新しい人が入っています。
当初の支援者はどこへ行ってしまったのでしょうか。
(彼のことはボランティア云々以前に、新たな政治
スタイルを開拓した開拓者として尊敬しています。
今後も長く付き合うことになると思います。)
ボランティア精神を持った政治家としては「田中
正造」の右に出る人はいないでしょう。ボランティ
アなどという言葉は彼にとって役不足で、命がけの
政治活動をしたといっても過言ではありません。
彼の活動を簡単に説明します。
1841年に下野の国( 現在の佐野市あたり) で田中
は生まれました。青年期には、下野の役人を説得し
秋田から米を多量に仕入れさせ、農民の飢餓を救う
ということをしています。
1880年に初めて栃木県議会議員に当選しますが、
そのときの志は「この金( 議員報酬) を全て公共の
ために使いたい」というもので、その後彼はこれを
実践し、一切の私欲を捨て生涯粗衣粗食を通します。
その後は一貫して「足尾鉱毒事件」の解決に向け
操業停止を訴えてきました。
1890年衆議院議員に当選しますが、国会議員とし
ての歳費を返上するなど彼の精神を貫き通し、足尾
鉱毒事件の解明に尽力します。
1901年田中は国会議員を辞職し、その年に足尾鉱
山操業停止を天皇( 明治) に直訴します。当時の日
本ですから当然死刑判決が出ました。結局死刑は免
れましたが、1913年田中の生涯は静かに閉じました。
田中は、まさに生涯を国民の命を守るために尽く
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しました。それも議員報酬も省みず、自分の命を賭
してです。
しかし、現在は残念ながらこのような政治家はい
ません。
ボランティア政治と称しても実際にボランティア
で働いているのは取り巻きであって、それに支えら
れている政治家自身はボランティア精神を持ち合わ
せていないのではないでしょうか。ですから、この
ようなボランティア政治はある種の風が吹けば非常
に強い勢力になりますが、その風が止むと支援者は
去っていってしまいます。政党政治であればこのよ
うな人員の入れ替えは頻繁に起こらないでしょう。
なぜでしょうか。
その原因のひとつとしては、ボランティア政治を
して最終的に誰のところにお金が集まるかを考える
と分かるでしょう。支援した政治家の活動の結果、
歳出の無駄が減ったから市民が結局得をした、と考
えるのは相当なお人よしです。それは、道路を作っ
て地域住民の利益につながったというのと全く同じ
ことです。それは政治家として当然の活動だからで
す。
私はボランティア政治が悪いといっているわけで
はなく、本当はボランティア精神の基で政治を行う
ことこそ、民主主義の原点に戻れると考えています。
底辺の市民活動が直接政治に反映されるからです。
しかし、最後に得をするのは政治家という構造は政
党政治でもボランティア政治でも変わりありません。
まず、政治家本人がボランティア精神で臨む必要
があります。そうすることによって必然的に彼につ
いていく人はボランティア活動をすることになりま
す。しかし、議員報酬を目の前にちらつかされたら、
それを拒む人は皆無でしょう。議員報酬は、政治家
のボランティア精神をそぐことになります。
唯一の方法は議員報酬を無償とすることです。
議員報酬の内訳を開示する動きもありますが、今
となっては当然のことで、それ自体は根本的な解決
にはならないでしょう。
無報酬にすることによって動機が不純な政治家が
一掃されるとともに、その政治家の力量を図ること
ができます。資産家であれば自分の資産を投げ打っ
て政治活動をします。それはまさにボランティア活
動です。また、資産のない人は必死で支援者を集め
なければなりません。それが財産になるのですから。
そして、政治家に与えられる唯一の褒賞は「市民
とともに闘った」という満足感に他ならないのです。
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