生活者主権の会生活者通信2004年08月号/04頁..........作成:2004年月日/杉原健児

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尊厳死 −死を選ぶ権利について−

文京区 松井孝司

 生死は一体不可分であり、生きることが権利なら、
死ぬことも権利である。
 古代ギリシアでは、安楽死はごく普通の行為で、
安楽死を意味するeuthanasiaという言葉はギリシア
語の美しい死を意味するという。自らの意思で「死」
を選ぶことが何ら非難されるべき行為でなかったこ
とは、毒を飲んで自殺したソクラテスの行動からも
知ることができる。
 わが国でも、自らの意思による切腹は武士の名誉
と威厳を保つ行為とされ、「死の作法」としては最
悪と言いたいが、切腹した武士は手厚く葬られた。
仏教でも「不惜身命」は尊い行為として賞賛してい
る。
 現代社会に於いて自殺や安楽死を否定的に観るよ
うになったのは世界中に広がったキリスト教倫理観
の影響だろう。5世紀以降キリスト教の影響が強く
なると、自殺は許されなくなった。人間の生死を司
るのは神とされたからである。カトリック教会は、
自殺は神を冒涜する宗教上の罪とみなして固く禁止
し、自殺者の埋葬を禁じた。13世紀になると、カ
トリック神学の説く「生命は神聖で不可侵である」
という考え方が広がり、自殺を罪悪視する考えがさ
らに強化された。
 しかし、19世紀になると科学というキリスト教
の対抗勢力が現われ、変化の兆しをみせる。キリス
ト教の本質を暴き、神学は人間学であることを主張
したフォイエルバッハは、「死はなんら害悪ではな
くて一つの善であり、しかも一つの権利、すなわち
害悪に悩んでいる者が害悪からの救済に対してもっ
ている神聖な自然的権利である」(「唯心論と唯物
論」から)と述べている。
 人間の生死は、神ではなく寿命を司る遺伝子と人
間を取り巻く環境因子に影響されることも明かにさ
れた。人間のゲノムがすべて解読され、遺伝子配列
の持つ意味が解明されて、生命の本質が明かにされ
れば、死を否定的に評価する従来の倫理観には根本
的な変革が迫られるだろう。
 遺伝子操作で寿命を延ばすことが可能になるかも
知れないが、人類が憧れる不老不死は自然の摂理に
反する。細胞レベルでは細胞の自己増殖とともにア
ポトーシスと呼ばれる細胞の自然死のメカニズムが
存在する。生には必ず死を伴うのが普遍的な生命の
法則であり、生と死は表裏一体なのだ。 「生」は
「死」との絶妙なバランスの上で維持され、集合体
を維持するための自己犠牲は生物に普遍的にみられ
る現象で、不必要となった細胞、機能不全に陥った
細胞が消滅することは自然の掟である。人間だけが
「生きる権利」を主張することは間違っており、人
間だけが際限なく自己増殖を繰り返していては、人
口爆発で地球環境を破壊することになる。
 幸いなことに先進諸国では例外なく人口減少の傾
向が顕著になり、人口爆発の心配は減ったが、皮肉
なことに医学の進歩で、寝たきり老人や痴呆老人が
増える可能性が出てきた。超高齢社会の到来で、人
生の終末期における介護医療費の激増が憂慮される
のである。
 平均寿命が88歳になると予測される日本では無
収入の超高齢者が続出し、現行の公的年金制度だけ
ではなく、国民健康保険や介護保険も近い将来、確
実に破綻するだろう。
 痴呆や寝たきりになって他人に迷惑をかけたり、
高額医療費の負担を他人に仰ぐことなく、元気な生
活を送る中で或る日突然ポックリと死ぬことが望ま
しいが、問題はその方法が無いことだ。
 取りあえず、不幸にして不治の病で入院したとき
安楽死の幇助者が、自殺幇助の罪に問われる問題を
解決しなければならない。そのためには「生きる権
利」と同等の「死ぬ権利」を個人に認め、個人の自
由意志による安楽死を合法化する必要がある。
 興味深いのは20世紀に入った初頭の1906年、
キリスト教国家のアメリカで、安楽死に関する最初
の法案がオハイオ州議会に提出されたことである。
法案は時期尚早として立法化に至らなかったが、自
らの死に決定権があるとする考えは個人主義が浸透
する国々に影響を与え、1970年代に入ると、ス
エーデン、ベルギー、オランダ、デンマーク、スイ
ス、イタリア、フランス、スペイン、日本で安楽死
協会が設立された。
 1975年ニュージャーシー州で脳に回復不能の
障害を起こし植物状態におちいった少女の家族が、
娘の「死ぬ権利」を求めて提訴し、一審では敗訴し
たが州の最高裁に控訴し、世界で初めて死ぬ権利を
認める判決が下りた。1977年にはカリフォルニ
ア州で患者の「死ぬ権利」を認める自然死法が施行
され、1994年オレゴン州では、住民投票を実施
し、医師による積極的安楽死が合法化された。
 現在では、米国の殆どすべての州で類似の法律が
制定され、アメリカ以外でも南オーストラリア州、
フィンランド、デンマーク、シンガポール、カナダ
で末期患者の延命措置を拒否する権利が認められて
いる。わが国の厚生省が実施した調査では、自分が
痛みを伴う末期患者になった時、延命治療はやめた
いと望む人は74%、延命治療中止に明確な判断基
準がなく、終末期医療に悩みや疑問を感じる医師は
86%、看護師は91%に上ったという。
 「生きる権利」だけではなく「死ぬ権利」を、回
復の見込みがない終末期患者の人権として認めるこ
とは、患者本人にとっても、介護に携わる家族とっ
ても歓迎すべきことである。その代償が「死」であ
っても、癌性疼痛などの苦痛から患者を開放するこ
とを拒否する人は少ないのである。
 「安楽死」という言葉が合法化の障害になるかも
知れない。1976年に発足したわが国の「安楽死
協会」は「尊厳死協会」と名称を変えている。「安
楽死」は「尊厳死」と呼び変え、一日も早く「尊厳
死法」を成立させて、超高齢社会の到来に備えるべ
きではなかろうか?法制化を促進するための超党派
の議員連盟も結成されたようだ。
 法制化に加えて、在宅に近い環境で人生の終末期
を迎えることができるようにホスピスなどの施設整
備も不可欠である。
 終末期患者の人権を尊重し、患者本人の「自由意
思による死」を許容することによって、無益な延命
治療を拒否することが容易になれば、増大の一途を
辿る老人医療費の節減にも寄与することは間違いな
いだろう。
 言うまでもないことであるが、「生きる権利」は
すべての権利に優先する。患者本人の意志を無視し
た安楽死は殺人であり、殺人行為は厳しく罰するべ
きである。

生活者主権の会生活者通信2004年08月号/04頁