1995年にケ小平が亡くなった。その数日後私
が所属する台湾の投資集団は彼の親族を通じて小さ
なメモを受け取った。それは我々に宛てた彼の遺言
であったことは本誌1998年12月1日発行の第
40号に掲載した「台湾海峡は大丈夫か」に書いた
通りである。遺言には二つのことが記されており、
一つは「沿岸はもういい、もっと内陸へ投資を頼む」
で、10年前には既に外国の投資が沿岸地域へ集中
していたから、内陸地方が発展から取り残されるで
あろうことは、 小平でなくとも我々外国人ですら
判っていたことだ。 遺言の二つ目、「やはり農業
が心配だ」を読んだ時、当時の我々は不可解だった。
老人の愚痴のようにも聞こえるし、外国の投資集団
に中国の農業をどうして欲しいのかに言及されてな
かったので、当惑の末「農業」のことは無視するこ
とに決めた。仮に将来問題が発生することがあった
としても、外国資本に出来ることは限られており、
農業は中国人民の得意分野である筈だから、「自分
達でやれよ」と言う気持ちが支配的だったからだ。
しかし今にして思えば、私はケ小平の先を見通す
偉大な洞察力に驚嘆すると同時に、「中国の農業問
題」は「地球規模の食糧問題」であり、外国人にと
っても決して「対岸の火事」ではないことに思い到
った次第である。
1980年代に入って外国資本が続々と中国へ進
出して来た当時、工業団地などは無く、当局が指定
する地域の隅々まで歩いて、十分な敷地を確保出来
る土地を外資が自らの手で探し出さねばならなかっ
た。指定される地域とは大抵ハゲ山か岩だらけ、谷
底だったり斜面であったり、電気もガスも来ておら
ず、電話から上下水道も自らの費用で敷設させねば
ならなかった。ダイナマイトの使用は認められたが、
山を崩し谷を埋め、土地の造成に必要な重機の調達
もままならない条件下で、連日連夜数百人の人手を
動員して、つるはしとシャベルに多くを依存した突
貫工事であった。だから費用も日数もかなり掛かっ
てしまう。時々工場の敷地が地形の都合でどうして
も既存の田畑に掛かってしまうことがある。その場
合当局へ申請して十分説明すれば農地を潰す願いは
意外と簡単に認可された。強制立ち退きで農地を削
られた農家には多額の補償金が支払われ、当然のこ
とながらその補償金は土地を使用する我々外資企業
が負担する。中国の農村を行くと、時々周りの景色
に似つかわしくない三〜四階建ての新しい民家を目
にするが、それらの殆どは失地農民が受け取った補
償金で新築した家々だ。
1980年代は工場に転用出来る農地は工場敷地
全体の20%以内に厳しく規制され、当局が農地の
減少に神経を使った跡が窺がえる。間もなく20%
の規制は緩んできて、徐々に無秩序状態になり、今
では敷地の80%まで農地転用で工場を建てられる
自治体も出てきた。
外国資本が中国で何か事業を行う場合、必ず中国
人個人又は中国の企業や団体との共同経営、又は出
資比率がたとえ外資100%であっても、職員採用
だけ、労務管理だけとか工場警備だけ等、たとえ僅
かな部分であっても中国側が企業運営に関っている
必要がある。中国側当事者は「団体」でも良いわけ
だから、例えば香港資本が中国共産党地方委員会と
言う「公的機関」と合弁して、日本で言えば神聖な
議会の議場とも呼ぶべき地方本部の建物を改装、サ
ウナとナイトクラブを共同経営する等の極端な例も
ある。村や町、県や省等の自治体が自ら外資のパー
トナーになる形態は製造業に限らず、日本で言う
「第三セクター」みたいな企業体は色々な業種に数
多く見られる。
自治体や公的機関が外資のパートナーになったり、
工業団地を造成して自らが不動産業者みたいな事業
を始めるようになってから「農業」に異変が出てき
たものと思われる。山を削ったり谷を埋めたりする
と金が掛かりすぎ、しかもそういった場所は地理的
に不便であることから外資が来たがらない為、誘致
競争が過熱して来ると自治体は造成にあまり金が掛
からないフラットな田畑に目をつけて、乱開発が大
胆に進められるようになった。工場用地への農地転
用は広東省が一番激しく、人口一人当りの耕地面積
は全国平均の半分以下に減ってしまった。この20
年間に全国で失われた耕地面積は全体の10%を越
えると言われている。このことは「食糧の生産が
10%減った」と言い代えられる。
もう一つの深刻な農業問題は農業従事者の減少に
ある。中国では全人口の80%が農村に住んでいる。
全国民は「農村戸籍」又は「都市戸籍」のどちらか
に属しており、農村を離れて都市で生活する等の移
籍は自由にならない。しかし合法的に又は違法を承
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知の上無許可で農村を離れ、都会に移り住む人々は
多い。その理由をいくつか挙げると:
@全国が国有地で田畑も同様。中国の農家は借地料
を国に払って農業を営んでいる訳だから、土地は
永久に自分のものにならず、田畑を捨てて他所へ
移り住むことには、末代まで美田を残す習慣のあ
る日本人ほど未練が無い。
A「一人っ子政策」の結果、農業の後継ぎが居ない
家が多く、政府はつい最近になって農家に限り
「二人まで生んでよい」に法律を改正したものの、
時既に遅しで、年をとって来ると農作業が出来な
くなる人々が多い。
B車や電化製品の普及によって農家のライフスタイ
ルも大きく変化したが、より深く貨幣経済に取り
こまれ、現金収入を大幅に増やさないと生活出来
なくなった。農業を主婦に任せ、夫や息子、娘な
どが「民工」と呼ばれる季節労働者として出稼ぎ
に出るケースは多い。農業を続ける農家でも、価
格が据え置かれて儲からない穀物生産を止めて、
花や嗜好品などの商品作物に切り替える者があと
を絶たない。
C自治体は農業振興の為、農業用水路建設、農道整
備、害虫退治、品種改良など、積極的に公共事業
を実施してくれるが、財政多難の折り、その費用
を受益者である農民に負担を強いて来るので、農
家の実収入が大きく減らされる。これは農業離れ
を加速させる最大の要因になっていると言われ、
「弱者切り捨て」の不満が「弱者の反乱」を各地
で発生させる、別の社会問題を引き起こしている。
中国の穀物生産高は4億トン、13億人の胃袋は
今のところ「自給率100%」で満たされている。
耕地面積が10%失われることによって、年間4千
万トンの食糧が不足する。4千万トンは日本の年間
全消費量に匹敵する膨大な量だ。しかし北京の指導
者達はあまり気にしていないようだ。朝昼晩毎日中
華料理だった伝統的食生活も、生活水準の向上と
「一人っ子政策」による「小家族化」によって、大
家族に都合のよい中華料理を減らし、洋風を取り入
れる傾向は都市部に限らず、農村にも見られる。食
生活が豊かになることは悦ばしいが、それに連れて
肉の消費量が急激に増えたことから、多くの農家が
養鶏や養豚など酪農へ変身、餌となる農産物の消費
を更に加速させている。
殆どのファストフードチェインが田舎町へもネッ
トワークを延ばし、コーヒーショップへ行けばスパ
ゲッティ―もサンドイッチも手軽に注文出来る。
外貨準備高が世界でトップクラスになったせいか、
「食糧が足りなくなったら外国から輸入すればよい」
とでも考えているのだろう。しかし世界的に異常気
象はいつ襲ってくるか判らない。天候不順による不
作が続けば不足気味の中国は必ず大量の穀物を買い
に出る。世界中の穀物市場で価格が急上昇、元々貧
困と食糧を輸入に依存している国々にしわ寄せが行
き、そして飢餓は広がる。
2030年頃から人口が減少する見通しが出てき
た。しかしこの先25年間はまだまだ増え続け、ど
う計算をし直しても15億人には達することになる
らしい。今の生産高の4億トンは何としても減らせ
ないばかりか、更に増産して5億5千万トンの収穫
が可能な態勢作りが求められる。日本が今中国へ出
しているODAも、金銭的な援助は打ち切り、低温
に強い、害虫に負けない生産効率の高い米作りなど
の農業技術の供与に切り替えるべきだ。
6年も前のことだが、岡山県の兼業農家を営む人
が15種類の苗を携えて内モンゴル自治区のゴビ砂
漠へ乗りこんだ。「ゴビ」は「石ころだらけの砂地」
の意味だ。地元自治体の協力を得て、テスト的に数
十ヱーカーの稲田を造成、そこへ黄河の水を汲み上
げて流したところ、最初は文字通り「砂漠に水を撒
く」ようで水は直ちに地下へ吸い込まれてしまった
が、根気よく続けているうちに田圃に水が張ったと
言う。黄河の水は「ミルクティー」と呼ばれ、黄土
が混ざって薄茶色をしている。長時間流しているう
ちに砂地は目詰まりを起こして水が溜まるようにな
ったと思われる。テスト結果は上々で、稲が立派に
成育する「美田」が完成したと聞いている。内モン
ゴルは日本の3倍以上の広さがある。他に使い様の
無い砂漠が田圃になれば中国の食糧問題は一挙に解
決する。中国に限らず、ブラジルやインド、パキス
タン、インドネシア、ナイジェリアなどの巨大な人
口を抱える国々は、工業立国の真似などせずに「農
業で自立」、食糧を自給してもらわないと困る。こ
れらの国々に対する先進工業国の役割は、食糧増産
技術や保健衛生と環境保護支援であり、自動車やエ
レクトロニクスの製造技術の移転ではない。
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