生活者主権の会生活者通信2005年07月号/06頁..........作成:2005年07月24日/杉原健児

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<中国の現実D>
中国で不足する水

東京都練馬区 板橋光紀

 秦の始皇帝が強大な武力を背景に戦国時代を終ら
せて、初めて中国を統一したのは紀元前3世紀のこ
とであった。始皇帝の偉大さは数々の改革を断行し、
度量衡や通貨を統一する等の政治、経済全般に亘っ
てシステムを構築させたことの他に、「三大土木事
業」を成し遂げたことを挙げなければならない。 
                       
 「三大土木事業」の一つは「万里の長城」で、匈
奴の来襲を防ぐ為に、それまでの北辺諸国が各々別
々に、部分的に築いていた城壁を大改修して連結さ
せ、東は渤海岸の山海関から西は甘粛省の嘉峪関に
到る全長2,400kmに及ぶ建造物である。これ
は純粋に軍事目的であり、今日では文化的遺産とし
て観光目的に役立つこと以外に存在価値は無い。二
つ目は「大運河」を着工、「長江=揚子江」と「黄
河」を水路で結び、大陸の南北を交通、物資の輸送
を容易ならしめるものであった。この運河の方は飛
行機や鉄道、自動車の発達した現代にあっても重量
物や大型貨物の輸送手段として活用されている。 
                       
 「三大土木事業」の三つ目は四川省成都市の北西
60kmの所に作られた「都江堰」と呼ばれる巨大
な水利施設である。これは単に洪水を防止するだけ
でなく、灌漑用水路を網の目のように張り巡らせて
四川盆地を人工的に肥沃な農地に変身させ、今日に
至っても尚現役で四川省の人々に絶大な恩恵を与え
続けているものだ。              
                       
 四川省は人口が約1億3千万人、面積も日本とほ
ぼ同じサイズ。昔成都市を中心とする省の北西部を
「蜀」、重慶市を中心とする南東部を「巴」と呼ん
だ。「巴蜀稔れば天下足る」の故事にある通り、四
川省では農産物のみならず殆どの物資が自給自足出
来ているばかりでなく、豊作であれば近隣諸省へも
供給出来るほど豊かである理由は「都江堰」の存在
にあると言って良い。             
                       
 紀元前2世紀、秦を滅ぼした項羽は配下の劉邦を
蜀の大守に任命、危険人物を辺境へ追いやったつも
りでいたが、劉邦はこの豊かな地「蜀」で力をつけ、
間もなく項羽を破って天下をとり、「漢帝国」を打
ち立てることになる。それから400年の後、諸葛
孔明は劉備玄徳に「天下三分の計」を進言、曹操と
の決戦を避けて「蜀」に入り、魏、呉、蜀による三
国鼎立の時代に入る。博識な諸葛孔明はその時代に
「都江堰」の存在と四川盆地の豊さとを既に知って
おり、蜀へ移ることによって劉備軍が力をつけられ
ると読んでいたものと思われる。        
                       
 この「都江堰」を造ったのは始皇帝の2代目にあ
たる恵帝が派遣した蜀の太守李泳父子であると言わ
れている。その後500年経ってから李泳父子は時
の皇帝から「王」のおくり名を与えられ、「二王の
像」の名で今でも二人の石像が「都江堰」を見下ろ
す高台に立っている。ダイナマイトもブルドーザー
も無い時代に、鍬と鋤を使った人力だけで成し遂げ
られた訳だから、完成させるまでに長い年月を要し
たに違いない。工事に携わった人々の中に大勢の犠
牲者も出たことであろう。作家の司馬遼太郎はここ
を訪ねて、その遺作「街道をゆく」では「父子が力
を合わせて成し遂げた」と記しているが、完成まで
に親子二代に亘って長期間続けられた「大事業」で
あったと解釈する方が自然であろう。      
                       
 三年前に成都に用事が出来て、家族旅行を兼ねて
「都江堰」を見物に行ったことがある。ヒマラヤ山
塊の氷河が溶けて急斜面を流れるこの辺りの急流を
指して、ヨーロッパのある学者が「これらは川では
なく滝だ!」とつぶやいたとの記録が残されている
くらいだから、流れは恐ろしく速い。しかし手で掬
って飲めるくらいきれいな水だ。「都江堰」は長江
の支流の一つ「眠江」の流れが四川盆地へ出た所に
位置している。川幅500m程の川の真中に堅牢な
中州を作って水を内江と外江とに分流させる。内江
の流れが巨大な岩山にぶつかって右へ曲がる箇所が
あり、その岩山に切り込みを開けて一定の水量を通
す水道が設けられて、全ての水は灌漑用水路網へ向
かう。乾期には外江が堰きとめられて川の流れは内
江へ集められ、水は一滴たりとも無駄にされていな
い。水量の多い雨季になると余分な水は眠江の本流
へ排出される仕掛になっており、一年を通して一定
の水量が田畑へ行き渡る。地球の温暖化で近年ヒマ
ラヤの氷河の溶け方が速くなっているとの情報があ
る。水の問題で手をこまねいている間にもみすみす
使える真水を海へ捨てていることになる。    
                       
 眠江の川筋は500km程下った所の宣賓で雲南
省方面から流れてくる金沙江と合流し、大河となっ
て「長江」と名を変える。勿論浄化する必要はある
が、「長江」の水を流域に住む人々に飲料水として
提供出来るのはこの辺りまでで、このすぐ川下に位
置する重慶にさしかかると「川」としての役割は果
たさず、単に「巨大なドブ川」に成り下がる。  
                       
 今の中国は「水」に関する三つの重大な問題を抱
えている。華北地方を流れる漢民族にとっては「母
なる川」とも呼ぶべき「黄河」の水が枯れて、水不
足が深刻であること。その反対に華南を東西に流れ
る「長江」の水が多すぎて洪水に悩まされているこ
と。そして川も湖も海も水質汚染が極限に達してい
ることである。                
                       
 重慶は市街地の人口は400万人だが、周辺の町
や村を含めた行政区としての重慶市になると300
0万人に膨れ上がり、中国南西部の経済、交通、文
化の中心地。地下資源が豊富で、鉄鋼、機械、電気、
造船、化学、食品、繊維等、多くの工場が立ち並ぶ
総合的工業都市となっている。外国からの進出企業
も多い。                   
                       
 更に1000km下った所に武漢市がある。ここ
は人口724万人、重慶と並んで中国の三大重工業
都市として知られ、夥しい工場群が密集している。
中国政府の経済優先と環境保護施策の立ち遅れから、
重慶と武漢の工場から長江へたれ流される排水の中
に鉛や水銀、カドミウム等多量の有害な重金属類が
含まれていることは想像に難くない。下     
流の各地で原因不明の奇病発生が相次いで報告され
ているとも聞く。               
                       
 重慶と武漢の中間点あたりに宣昌と呼ぶ中型の都
市があり、その近くに三峡ダムが位置する。三峡ダ
ムは1500万kwの超大型水力発電所を作る事の
外に下流諸都市の洪水を防ぐ目的がある。宣昌市か
ら始まって河口の上海市に至る長江の両岸2500
kmに亘って大小無数の湖沼がある。はやい話しが、
大昔から長江が繰り返し氾濫し、切れた堤防を放っ
たらかしにして来た為に、低地に溜まった水がその
まま湖沼となって残っているだけのことだ。明らか
に生活排水が流れ込んでいるものと思われ、いずれ
の湖沼も水は濁っている。多くの湖沼で各種淡水魚
の養殖が行われている。日本の歌謡曲に出てくる蘇
州近くの「太湖」で獲れる「上海ガ二」等は国際的
ヒット商品として夙に有名だが、「水の都蘇州」で
仕事をしている間中どす黒い色をした運河の川底か
ら沸きあがるガスの悪臭に閉口して以来、カニ好き
の私だが「上海ガニ」だけは食べないことにしてい
る。                     
                       
 長江は水源から河口まで6300kmもあり、流
域10省1自治区2市の人口は合計6億人にのぼる。
東京の隅田川でさえ下水を浄化処理して川へ放出し
始めたのはほんの15年程前からだ。中国では人口
が多過ぎること、川が大き過ぎること、浄化施設を
作る予算が捻出出来ないこと等で、水の汚染対策は
後手にまわっている。水質汚染防止法は1988年
に施行されたが、当局が党の強権に押されて行使し
始めたたのが8年後の1996年、6万軒の皮革工
場、製紙企業、メッキ産業等が「改善の自助努力に
欠ける」を理由に操業停止と工場閉鎖の行政命令を
受けていると言う。田畑から流れ出る窒素酸化物、
硫黄酸化物、二酸化炭素の量は若干増えているもの
の、農薬使用量は横ばいで、悪化の速度は鈍化した
との発表はあるが、当局が全く触れてないところを
見ると、「生活排水」の改善の方は「お手上げ」の
状況らしい。流域に暮らす6億の民「全員が被害 
者」であると同時に「全員が加害者」でもある訳だ
から、華南の人々の平均寿命が58歳と低いことを
含めて「自業自得」と言わざるを得ない。    
                       
 問題は「長江の汚染」に何ら加担していない日本
人に被害が及ぶことにある。河口南岸の上海市から
北岸の南通市まで75kmある。つまり河口の川幅
が東京から小田原まであることになる。長すぎて河
口に橋を架けられない。河口の真中に「祟明島=チ
ョンミントウ」と呼ぶ形も広さも東京都に似た巨大
な中州がある。上海市当局は浦東地区の開発を大成
功に完成させた余勢を駆って、祟明島を開発する計
画に着手した。言うまでもなく祟明島とは長江の汚
泥が長い年月をかけて堆積した地盤のゆるい土地で
たとえ借地料を格安に下げても外資が寄って来るか
どうかは疑わしい。長江の汚水は祟明島の両岸を洗
って全量が東シナ海へ吐き出される。汚水層は直ち
に黒潮に突っ込んで引きずられるように北上し、九
州南端へぶつかって左右にわかれ、その多くが対馬
暖流に乗って日本海へ流れ込む。他の一方は少量ら
しいが太平洋側へ出て、多分四国と紀伊半島を洗う。
風向きによっては豊後水道から瀬戸内海へ入って養
殖魚の養分に資するか、又は赤潮や毒性バクテリア
を発生させて沿岸漁業に影響を与える可能性もある。
最近巨大クラゲが上海沖から玄海灘を通って日本海
へ大量に入って来ている。長江から出た汚水層の動
きと一致しているからと言って、浅学の私が巨大ク
ラゲの発生を「6億人分の生活排水と工場からたれ
流された有害重金属のせい」と断定する勇気は無い。
しかし長期間間断無く漂う汚水層が日本近海で「海
中の生態系を何らかの形で狂わせる可能性がある」
とだけは言えそうだ。             
                       
 黄河の汚染も同様である。源流から河口まで55
00kmの長さがあり、流域の6省2自治区には大
半を漢民族で占める3億人が暮らしている。黄河の
水量は長江の1/20であると言われており、河口で 
川面を見る限り満々と水を湛えているかのようだが、
海水が河口深くへ逆流しているだけのことで、河口
近くの山東省のみならず中流の河南省まで遡っても
川底は干上がって、中国の町や村のどこででも見ら
れるように、川岸の至る所がゴミ捨て場と化してい
る。雨季に集中豪雨があれば黄河の水は勢いよく流
れ出し、3億人分の生活排水は川岸に積まれたゴミ
と一緒に渤海湾に押し出される。海洋学者の論文に
よると、渤海碗と黄海の水はぐるぐる回っていて、
あまり東シナ海へは出て来ないらしい。日本人にと
っては一見朗報に聞こえるが、回遊する黄海の水は
朝鮮半島の東側を洗う。日本が輸入しているアサリ
が北朝鮮の東岸で獲れたものだとすれば、それらは
黄河の汚水をたっぷり吸収して育っていることにな
る。ボロ船の油濁検査も大事だが、アサリの食品検
査をしっかりやって欲しいものだ。       
                       
 中国全土の40%以上が砂漠で、華北地方の砂漠
化は年々拡大しているらしい。砂漠化を食いとめる
作業も急がれる。中国には「生産建設兵団」と言う
組織がある。1950年頃共産中国の発足と同時に
創設され、人民解放軍の指揮下にあり、220万人
も居るとのことで、たまたま似たような数の正規軍
230万人と混同され勝ちだ。つまり人民解放軍は
450万人居ると理解してよい。「生産建設兵団」
は国境紛争等が発生すると武器を携えて国境警備に
ついたりもするが、平時は農機具や建設機材を持ち、
地方分権とか自治体のエゴを超越して、新田開墾や
国土開発等国家レベルの土木事業に従事する、昔の
日本にもあった「屯田兵」か「満蒙開拓団」に似て
いる。収穫した農産物を解放軍の食用に供給したり、
市場へ供出する義務を負い、利益を出せば納税の義
務も伴う。日本人にはあまり知られてないが、新彊
軍区の指揮下にある新彊生産建設兵団がゴビ砂漠を
開拓して、広大な田畑を造成、穀物ばかりでなく綿
花や植物油の生産にも活躍していることはよく知ら
れている。                  
                       
 華北の水不足を解消する為に南北方向へ3本の運
河を掘り、多過ぎる長江の水を黄河の上流、中流、
下流へ流す計画は数年前に具体化され、複数の生産
建設兵団を投入して一部の工事は既にスタートして
いる。上流の四川省から青海省に掘られる山岳地帯
の部分はトンネル水道になると聞いている。この発
想は2300年前の始皇帝が実現した「大運河」に
あやかったものであると言える。        
                       
 ロシアとの国境には中国で3番目に長い「黒竜江」
が流れている。旧満州北部地方は人口が少ないのと、
工場が少ないせいで川の水は非常に良質だ。この川
から流れ出る水が北海道北岸から北方四島方面へ流
れることは、冬になると押し寄せる大量の流氷が全
て黒竜江の真水で出来ている事実から解る。言いか
えると、黒竜江の水をむざむざと大量に海へ逃がし
て来たことになる。最近瀋陽軍区の兵団が、6師団
10万人の勢力で「黒竜江建設兵団」の旗を掲げて
北へ向かって出動したとの情報がある。この兵団が
「黒竜江の水を活用する」任務を佩びているもので
あることを切に願う次第である。兵団の仕事振りは
冬になったら網走海岸へ行って流氷の分量を地元の
人々に聞いてみれば判るかも知れない。     

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