東京・中野区が教育委員の選定に「民意を反映させる工夫及び独自の自治への試み」として、全国
にさきがけ「区民投票条例」を施行させたのは今から25年前の昭和56年のことである。それまで
の私を含めた多くの国民の間では、「教育委員とは自治体の長が議会の同意を得て、“任命”で決ま
るもの」と決めてかかって、「公選制」があり得ることなどは思いもよらなかったのではなかろうか。
教育制度の現状打破を痛感する区民の間から声があがり、区議会議員や区長を動かして制度の改革を
勝ち取ったものと想像出来る。
中野は他の地域に比べて政治意識に旺盛な人々や革新的な考え方を備えた市民が多い「土地柄」な
だろう。私の幼い頃からの記憶を辿ってみても、選挙の度に、昔から確かに社会党も共産党もすこぶ
る元気がよかった気がする。保守系候補者を圧倒する程ではなくとも、革新系は保守系とほぼ互角に
戦って、常に安定的な議席を得ていた。
「革新が強い土地柄」になった理由についてつらつら考えてみた。とりわけ戦前から中野に住んで
いた人々、そしてその人々から語り継がれて薫陶を受けたと考えられる人々に「現状打破」或いは
「反体制的」な染色体が醸成されている原因は、明治以来中野が「基地の町」であったことが深く拘
わっているものと思われる。今の沖縄や厚木、岩国など、基地周辺に住む人々のいみきらう不快感に
共通する土壌があるのだ。
1709年に徳川五代将軍綱吉が没して「生類憐れみの令」が廃止になったことは本誌2006年
二月号に書いた通りである。その後の歴史をひもといてみると、犬小屋群の敷地となっていた「お囲
い」の跡地28万坪は、明治に入ってから主に「軍用地」として利用され続けてきた。先ず明治22
年、新宿・八王子を結ぶ中央線が開通し、明治30年、「お囲い」の東部に「陸軍鉄道隊」が設置さ
れた。今の「中野電車区」はその名残である。更に大正2年に「陸軍電信隊」と風船爆弾の「気球隊」、
昭和元年に「通信隊」が来て、昭和14年には「陸軍気象部」が続く。
ここまでは当時の日本中いたる所に設けられた軍事施設や軍需工場をかかえる市町村と同列にあっ
て、隣接する渋谷区には「代々木錬兵場」、新宿区・市ヶ谷には「陸軍士官学校」、練馬区には「陸
軍成増飛行場」、杉並区・井荻にも群馬県大田原から移ってきた「中島飛行機」もあったことだし、
中野区民だけが「反体制的」になる理由にはならない。
問題は昭和10年、この「お囲い」に都心から「憲兵司令部東京隊本部」が移って来て、更に「中
野陸軍憲兵学校」と「特別高等警察要員訓練所」(特高要員訓練所)が併設されたことにある。軍事
諜報のエキスパートを養成する「陸軍中野学校」もあったが、当時そんな養成学校が存在すること自
体が高度な軍事機密であったことから、一般市民には知らされず、我々中野の地元市民ですら「陸軍
中野学校」のことを知ったのはサンフランシスコ講和条約が成った1951年以後、私の場合は中学
生時代の昭和29年頃だったと思う。
通勤の都合を考えた為であろうが、今の早稲田通りの北側と桃園地区や高円寺駅周辺にはこの軍事
施設に勤務する軍人・軍属が住居を構える人が多かった。私の親族にも憲兵大尉で、憲兵学校と特高
要員訓練所の教官を兼任する人物が居り、元々都心に住んでいたのに、憲兵学校の移転に伴って中野
へ移住、我々一族の3所帯が中野区民となったのも昭和10年のことである。
「憲兵」とか「特高警察」と聞いてすがすがしい気分になる人は少ない。元々「憲兵」とは軍司令
官の指揮下にあって、軍人・軍属の軍紀違反や非行を取り締ったり、脱走兵や徴兵忌避者の調査・検
挙など、「監軍護法」を任務とする「野戦憲兵」又は「軍令憲兵」を指していた。ところが明治22
年、フランスの憲兵制度を規範として作られた「憲兵令」が施行されてから一変、「憲兵は陸海軍大
臣に隷属して軍事警察を司り、併せて司法大臣の指揮を得て司法警察をも行う」ことになった為、天
皇の持つ「統帥権」と、司法大臣の持つ「公権行使権」の両方を着ることになる。しかも「緊急を要
すると判断した場合は軍司令官の命令や司法大臣の許可を待たずに強制執行が出来る」権限も付与さ
れ、憲兵は軍人・軍属を対象とするだけでなく、その無限に近い「裁量」で一般市民をも逮捕、拘留、
捜査、押収を可能とする法的根拠とされてしまった。当時の政治家が「憲兵令」の中身と、将来善良
な市民の人権を侵害する可能性等をよく検討せずに、漫然とこの新法を可決させてしまったことが悔
まれる。社会の無関心が悲劇を許してしまったとも言える。
昭和に入ると、政官界に汚職が蔓延、不況から労働者は困窮、農村では天災による不作等の悪材料
が重なって、全国各地に抗議デモや国家改造・政権打倒運動が広がる。そこで登場したのが「巡察憲
兵」だ。軍刀をさげて拳銃を帯び、拍車のついた長靴を履き、軍服の黒襟には警察権を表示する金色
の旭日六光を型取る特別徽章、サイドカー又は馬に乗って庶民を睥睨しながら市中を巡回したと言う。
ビラを配る者、集会に出席する者、演説をする者、派手な服装の者や場違いな出で立ちの者、金使
いの荒い者、足早に立ち去ろうとする者、長時間立ち止まっている者等、不審者と映ればことごとく
が「ちょっと来い」と呼びとめられて尋問を受ける。従わなければ直ちに連行されたようだ。冤罪を
被ったり、拷問を受けたりした善良な市民の話は山ほどある。昭和8年、「蟹工船」の著者小林多喜
二が特高警察によって築地署へ連行され、その日のうちに「拷問」により殺された話は有名である。
昭和3年、憲兵隊に「特別高等警察課」が新設される。司法大臣の指揮のもとに活動する在来の
「特別高等警察=特高」と紛らわしいが、両者は互いに分身か別働隊のように連携し合い、使い分け
られたらしい。間もなく大陸で反日の動きが活発化し、多くの「特高憲兵」は「諜報活動」に外地へ、
「特高」の方は主に内地を受け持つ。「特高憲兵」は軍人でありながら「特高」と同様に「私服」で
の活動が可能となる。内外主要駅での手荷物検査、電波監視、電話盗聴に郵便検閲は当たり前になる。
密偵潜入は政党や労働組合、在日朝鮮人会から宗教団体等多岐にわたり、不穏グループの検挙や弾圧
を任務としていた。「不穏グループ」とは「右翼」と「左翼」を指していたが、「右翼」は軍部と直
結、政権与党が軍部にコントロールされる時代になると、右翼の行動は不問に付され、左翼の行動だ
けが弾圧の対象となった。
中野駅の北側に位置する「軍事施設」とは、体制を批判する者を弾圧して政権与党を守る「憲兵と
特高の総本山」と言うことになる。暗黒時代のこととて、憲兵と特高だらけの環境で、言論を厳しく
抑圧された当時の中野区民は口にこそ出せないが、えもいわれぬ憲兵学校と特高訓練所の建物を横目
に見ながら耐え偲び、戦前・戦中をやり過ごした訳だ。体制に批判的な心情はこの頃に培われたもの
と思われる。
終戦と同時に憲兵隊は解散、憲兵学校も特高訓練所も廃校となる。その後の7年間この地は進駐軍
の駐屯地となる。米兵による犯罪が多発した。平和の森公園通り西側に面した「中野刑務所」は戦前
「豊多摩刑務所」の名称であった。治安維持法に違反した過激思想分子を社会的に隔離する「予防拘
禁」の目的で造られ、長期収監者には哲学者の三木清等の学者や知識人、徳田球一、志賀義雄等の共
産党関係者が多かった。戦後はアメリカ軍専用の「軍刑務所」として接収される。ほぼ毎日アメリカ
兵囚人の脱獄を知らせる警報が四方へ鳴り渡り、その度に家の戸締りを確かめるやりきれない習慣が
あったのを覚えている。昭和58年にこの刑務所は閉鎖され、今は「平和の森公園」等に姿を変えて
いるが、これも中野区民が中心となった市民運動によるものと聞いている。
終戦後3ヶ月経ってから「特高」の方も解散させられるが、そのわずか1年後の昭和21年には復
活する。しかし「特高」の名称は使わずに、思想犯を取り締まる部門が「公安局」、テロリストの取
り締まり部門は「警備局」に改名する。しかもその構成要員の大部分と捜査手法や容疑者の取り調べ
技術を温存、「特高時代」のノーハウがそっくり継承され、60年後の今日に至るまで続いている。
日本国憲法第36条は公務員による「拷問」を厳しく禁じている。「拷問」とは、「容疑者の身体
に苦痛を与えて、無理に問いただすこと」を指す。今日ではさすがに殴る蹴るは多用されなくなった
ようだが、喫煙、休息、睡眠時間の制限や、健康で文化的な生活に程遠い留置場に長期間束縛する等
の扱いは「拷問」に匹敵すると言えなくもない。
最近自衛隊官舎にイラク派兵を批判するビラをポスティングした程度の微罪で「家宅侵入罪」に問
われ、容疑者は供述書にサインするまで75日も拘留された事例があった。日本ではたとえ微罪、冤
罪に拘わらず「警察に連行された」とか「長期間拘留された」事実だけでも、留守家族が村八分にさ
れたり、子供が学校でイジメられたり、友人が離れていったり、本人だけでなく家族までもが職を失
うとか、家庭が崩壊する等の「一生を棒に振る」きっかけとなるような悲劇が絶えない。それらが容
疑者に精神的な苦痛を与え、取り調べや裁判が長期化すれば、心痛これ又身体にダメージを及ぼす
「拷問」の一種とは言えないだろうか。
昭和27年に「破防法」が施行された。この法律を要約すると、
1.暴力主義的破壊活動を行った団体に対する規制措置で、公共の安全確保を目的とする。
2.この法律が善良な市民の基本的人権を侵害する恐れがあるから、必要最小限にのみ適用し、公安
調査官はいやしくも拡大解釈して発動してはならない。
3.公安調査官がその職権を濫用し、善良な市民に義務のないことを行わせたり、その権利を妨害し
た場合、その公務員を3年以下の懲役に処する。
と言うもので、国民に騒乱を禁ずると同時に、取締り当局にこの法律の運用を厳しく制限している。
「オウム事件」のように器物破損や怪我人・死人が明白に発生した事案でない限り行使は難しい。つ
まり警察・検察当局にとっては「使い勝手が悪い法律」なのだ。
明らかに「破防法」の不便さを補う為だと考えられるが、昨年秋から自民・公明連立政権によって
「内閣提出第22号」なる法案が出されている。この法案の正式名称は「犯罪の国際化及び組織化並
びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法立案」で長ったらしいが、その骨
子は、
1.別名「共謀罪」で、重大な犯罪を団体の活動として共謀した場合、その計画がたとえ未遂に終わ
ったとしても、謀議に参画した者全員が罪に問われる。しかし実行前に「内部告発=密告」して
来た通報者の罪は免除又は減刑される。
2.談合等不正に入札を妨害する行為の処罰対象を拡大し、罰則を加重する。
3.コンピューターウィルス、迷惑メール、わいせつ画像の作成や提供を禁じ、それらの犯罪行為を
立証する証拠品として、パソコン本体やハードディスクだけでなく、発信記録や画像のコピーを
も採用出来る。
4.各種の刑量が時代に合わなくなったので、改定(殆どが加重)する。
である。これら4つは僅かずつ関連するかもしれないが、本質的には全く異なる性格である。法務省
がまとめた「関係資料」だけで1センチの厚さの本になっている。これらの膨大な中身のものを1本
の法案で通そうとするところに「いかがわしさ」を感ずる。与党議員の中にすら「いかがなものか?」、
「時代錯誤」や「破防法より悪質」と疑問視する声もある。私は2、3、4については大賛成だし、
与野党議員の中でも反対者は皆無だろう。1についてのみ切り離して採決してもらいたい。小泉自民
党の絶対多数議席をもってすれば、いかなる法案でも国会で可決させてしまう可能性がある。我々の
世代がボヤッとしててこんな法律を成立させてしまうと、将来子々孫々に禍根を残すことになる。
未だ国民の多くが覚めやらぬ「オウム事件」やアメリカの「911事件」等を「未然に防ぐ為」と
説明されれば「至極当然」と、成立を容認してしまい勝ちだ。しかし、「法律」と言うものは必ず
「文言」だけが一人歩きし、その新法が上程された背景は一切考慮されないのが大原則だ。過去に発
生した大事件に何ら共通する要素の無い事案が、文言の一部であろうとも適用することが不合理でな
ければ、当局は強権を行使することが許されてしまう。「凶器準備集合罪」を成立させる時も、政府
の説明は「暴力団対策」の一点張りだった。しかし実際には学生運動や市民運動、労働争議にも適用
された前例がある。国家を転覆させる大計画であろうと、善良な市民による反対運動や啓蒙活動、選
挙中のポスター貼りからビラ配りまでもが「共同謀議」の対象にされかねない。
当会の旧称は「平成維新の会」であった。「維新」とは「全てを新しくする」の意味だから、良い
世の中にする為に、古いものを壊し、倒閣、政界再編、政権交代、道州制による国家改造を目指して
活動している。「では、革命なのか?」と問われれば、「非暴力で」の前置詞は付けるが「Yes」
である。「ガラガラにっぽん」の活動は「税金の使い道を検証する」、つまり「政治の動きを見つめ
よう」にあると思われるが、「ガラガラ」の表音文字から察するに、一度全てを壊して作り直す「ス
ラップ・ビルド」を旗印にしていることになり、「選挙を経て」の枕詞をいくら叫んでも、「破壊を
目指す集団なのか?」と問われれば「当らずとも遠からず」だ。我々の定例会や運営会議、会報の編
集会議や、殆ど「飲み会」同然の「一日の会」までもが「共同謀議」、出席者の全員が「容疑者」に
される恐れがある。
連合軍は戦後の日本に民主主義と非軍事化を定着させるつもりで乗り込んできた筈だが、結果はそ
の正反対で、昭和24年にはマッカーサー司令部と日本政府による「レッドパージ」が始まり、「特
高」の復活、続いて公安調査庁が出来て「破防法」の成立、「共同謀議罪法」が間もなく施行され、
民主主義とは逆行する方向へ向かっている。自衛隊の破壊力は今や世界で5本の指に入るまでに拡大
している。
カルト集団、テロリスト、不法滞在外国人等による悪質な犯罪が激増していることも確かだ。しか
しそれらは警察の怠慢、公安調査庁、入国管理局、海上保安庁や麻薬取締官等の公務員に能力欠如と
彼等の仕事に気合が入ってないことに本質的な原因がある訳で、「取り締まりの強化は社会の安全を
確保」と謳いながら「善良な市民に負担を課す」のは「お門違い」。「もっと真面目に仕事をしろ!」
と言いたい。
私は「共謀罪法案」を草案した役所とその部署名を知りたい。更に、この時代を逆行させる法案に
賛成した議員と反対した議員名を公表してもらいたい。次の選挙で投票判断の資料としたいからだ。
この法案は傷口に塩を擦り込むかのような、中野区民の神経を見事に逆なでする内容となっている。
賛成する候補者は中野区では絶対に当選出来まい。
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